高校時代の親友の一人Mが、はるばる姫路から帰省。せっかくのMの帰省、本日は高校の連れ6人で海へ繰り出した。

往復の車内の会話の大半は「う○こ」に割かれた。Mの友人は我慢できずコンビニの洗面所に出した経験があるとか、Mのバイト先のパチンコ店のフロアに大量の人糞が落ちていたとか、実にとんでもない話の数々だった。

M自身、よく「漏らす」らしい。大学時代はムーニーマンの世話にもなったらしい。

午後10時、爽やかな涼風を身にまとい、Mは姫路に帰って行った。
現代における「健全」という単語の意味を踏まえ、「健全過ぎる」ことは逆に不健全なんじゃなかろうかと。

松下政経塾元塾頭、青年塾代表の上甲晃氏が言っている。

「そこそこ」やるようではまだまだだ。「そこまでやるか」という人が一歩前へ進むのだ。

何にしてもそうだ。

昨日のパーティは多分成功だ。そこそこには。

来月は「そこまで」やろう。
地元の中学校の総合体育大会を観てきた。妹が出場していたのだ。

「差し入れ持ってって!他の保護者も持ってっとるから!はいこれ!」と、母からバナナを10本託された。目立ち過ぎない程度に、ちょうどいいくらいに、周りと同じ程度にやる(今回は差し入れ)。田舎の文化である。良くも悪くも、こういうところからも共同体意識は醸成されていく。

肝心の試合(バレーボール)だが、2勝1敗だった。1敗の試合内容だが、実に惜敗だった。

「負けた。」「あとちょっとだった。」「悔しい。」

久しぶりに勝負の本質を見た気がした。

つまり、負けてはいけないのだ。

バナナも、もう少し持って行っとけばよかった。他と一緒では、駄目なのだ。
本日は支店の飲み会。いやはや、車で来て飲まぬと決めていたが、構わず飲んでしまった。「今、ここ」が楽しくなければ意味がないのだ。刹那主義を行くのだ。

「貫く」という行為は万能だ。我儘になり切れたら勝ちだ。例えば誰が何を言おうと脱げばいいのだ。誰が何を言おうと突き抜けるのだ。
井原で夜市をしていた。

フランクフルトを頬張った中学生がままちゃりで颯爽と駆け抜けて行く。

夏である。