ましゅまろ短編集
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2015年09月25日(金)
【壁】(57)


 宴は続いていた。全ては明日に決行される「壁抜け」の儀式の前祝いで、明日の主役であるリュウイチ兄さんを激励するためのものだった。
 リュウイチ兄さんとは、僕の姉であるハルコ姉ちゃんの旦那さんで、僕の義理の兄貴に当たる人だ。
 リュウイチ兄さんは、この村の為に明日死ぬのだ。

 賑やかな宴を抜けて、僕は一人、薄暗い海岸を歩いていた。海と陸とを仕切るように、空高くずっしりた壁が海岸に横たわっているので、向こう側が本当に海であるのかどうか僕は知らない。
 コンクリートのような灰色の壁が、所々赤黒く汚れているのが、「壁抜け」の跡だ。
 この壁に全速力の車でぶつかって壁を壊そうというのが、「壁抜け」の儀式である。

 明日になれば、この村は宴よりももっと賑やかになる。
 「壁抜け」を一目見ようと観光客やマスコミが押し寄せて、ごった返しになるからだ。
 馬鹿げている。海を見る方法は他にいくらでもあるというのに。
 僕はそんな愚かな大人には絶対にならないと、この壁を見るたびに固く心に誓う。
 否、僕もまだ愚かな子供だったのだ。純粋に、海を見る為に「壁抜け」をするのだと考えていた僕も、まだ幼かったのだ。
 押し寄せる観光客にマスコミ。過疎化したこの村にもたらす大きすぎるほどの経済効果こそが「壁抜け」の本来の恩恵なのだ。

「おーい、カズマ」と、リュウイチ兄さんは僕を呼んだ。ほろ酔いで上機嫌な感じが腹立たしい。

 くだらない。なんだ。皆、死んで当然なクズばかりじゃないか。

「早く死ねよ」
 僕は振り向きもせずに、吐き捨てた。

09:41
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2015年09月15日(火)
【深海】(73)


 どうしても、海がよかった。私の最後の我儘のつもりだった。
 それなのに、どんなに車を走らせても海は見えてこないものだから、イライラしているのだと思う。助手席の彼は、窓の外を見たまま動かない。
 とっくに当てにするのを止めたカーナビは、車を海のど真ん中に取り残したまま、「目的地に到着しました。運転お疲れさまでした」と絶望的な状況に、更に追い討ちをかける。
「ごめんね」
 どうしようもなくなって、私はとりあえず彼に謝った。とりつく島もない状況に、尚更心細くなって、私はすがるように彼の肩を揺すった。
「ねえ」
 揺すった勢いで、向こうを向いていた彼の顔が、ガクンとこちらに向いた。口を開いたまま目を閉じている。眠っているのかもしれないと思ったその時、ぽっかり開いた彼の口から魚が出てきた。
 一匹や二匹ではない。何百、何千と言う鮮やかな魚の群れが、彼の口から止めどなく溢れては、力強く泳いでいる。
 このままでは、車の中が魚でいっぱいになってしまうと妙に冷静な脳みそが、私の指先に窓を全開にせよと信号を送る。
 震える手で開いた窓の隙間から海水が押し寄せて、今度は慌てた脳みそが窓を閉めよと信号を送る。
「海だ……」誰に言うでもなく、私は呟いた。
 でも、一体いつ……?
 彼が暢気に欠伸をしながら、「着いた?」と聞く。
「海には着いたよ。着いたんだけど……」
 問題はここからだ。


18:24
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2015年07月11日(土)
【癖】(67)


 夜中に金縛りにあった。
 薄目を開けたら幽霊がいて、ちょっと体を貸してよと言う。
 返してくれる保証がないので私は断るが、幽霊はそこをなんとかと手を合わせて頼んでくる。
 幽霊は出来ることなら土下座したいくらいだが、足がないので勘弁してよと頭を下げた。あんまり熱心に頼むので、それじゃあちょっとだけねと私は体を貸してあげた。
 とても嬉しそうな幽霊が私の身体にすうっと入ると、代わりに私の魂がほんわりと外に弾き出される。
 ふわふわしてあったかくっていい気持ち。このまま眠ってしまいそう。
 幽霊は私の体を確かめるように手をもみ合わせ、やがてポキポキと指の関節を鳴らした。指が終わると、背骨や首の骨を順繰りポキポキと鳴らしていった。
 その間、私は特にすることもなく、部屋の中をふわふわしていた。眠ってしまいそうな心地よさがずっと付きまとっている。
 やがて満足そうな幽霊が、すうっと体を抜け出してありがとうと言って、代わりに私が元の体にすぽんと収まる。
 私は、いいんだよと答える。体を返してもらったからこそ言えることだ。
 幽霊は、関節を鳴らすのが癖なんだけど、体がないからどうしようもなかったんだ、本当にありがとうと何度も何度も頭を下げた。
 いいんだよとまた私は答える。また来てよと続けると、幽霊は酷く驚いて、私の死因はこれなんですよ、首の関節を鳴らしすぎて体がおかしくなったんです、いいんですかと聞く。
 私はまたまたいいんだよと答える。
 さっきのふわふわ、癖になっちゃったから。

 

11:18
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2015年04月27日(月)
【ナルシスト】(75)

 大富豪の、18歳の愛娘が奇術師に呪いをかけられてから早5年。深い眠りについた彼女は、1度も目を覚ましていない。
 1年かけて、ようやく問題の奇術師を見つけ出し、尋問すると
「その娘が心の底から信じ、愛しているものと接吻しない限り、呪いをとくことはできない」そう不気味に笑うだけだった。

 それから更に5年。愛娘はまだ目を覚ましていない。と言うよりも、大富豪が呪いをとこうとしないのだ。

「旦那様、私みたいな者がこんなことを聞くのはおこがましいかもしれませんが……どうしてお嬢様の呪いをとかないのです?」
 庭師がおそるおそる聞くと、大富豪が物凄い剣幕で怒鳴った。

「出来るわけがないだろう!」イライラしながら大富豪が叫んだ。「どうやったら自分自身と接吻できるというんだ!」

07:47
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2015年04月10日(金)
【鱗】(66)
 月の綺麗な夜だった。
 縁側に座る僕の膝の上で甘えていたミーコが、急に庭へと飛び出した。
「土に、帰らなくてはなりません」眩しいくらいの満月に照らされながら、猫のミーコが深々と頭を下げた。「今まで優しくしてくれて、本当にありがとうございました」
 突然ミーコが口を聞いたことに、僕はあまり驚かなかった。それよりも、数日前に僕が見たあの光景はやっぱり幻なんかじゃなかったんだと、やりきれない気持ちでいっぱいだった。
「お前……やっぱりあの時、車に跳ねられたんだね? 僕は夢を見たのかと思っていたよ。悪い夢をさ。夢の中で、僕はお前にとりすがって泣いて、焼かれて灰になったお前を見てまた泣いたんだ。庭に埋めたときも、お前が好きだった場所を見ても……涙が止まらなかったんだよ」
 ミーコは、まばたきもせずに僕をじいっと見ていた。
「でも、お前、帰ってきたから……」いつのまにか溢れていた涙にも構わずに、僕は続けた。「帰ってきて、いつも通りに僕に擦り寄ってきたから……よかった、あれは夢だったんだって、そう思ったよ。でもさ、お前の脚に、魚の鱗がついていた。人魚見たいにさ。おかしいなって。だから、分かったんだよ。やっぱり、もうお前は死んでしまったんだなって。そして、どういうわけか、今までと違う姿になってでも僕に会いに来てくれたんだろうなって」
「勝手なことをして、ごめんなさい」ミーコは目を伏せた。「恐らく、私が隠していた魚の骨と、貴方が埋めてくれた私の骨が、土の中で混ざってしまったのでしょう。でも、どうしても一目会って、お礼を言いたかったのです。こんな醜い私を見ても、貴方は愛してくれないかもしれないけれど、どうしても言いたかったのです」
 ミーコはくるりと身を翻し、「さようなら」と呟いた。土に帰るというそのことばの通り、ミーコが灰のように少しずつ砕けて土に消えていく。
 愛らしい耳が、綺麗な瞳が、小さな鼻が、少し笑っているような口が……。さらさらと音も立てずに消えていく。
 こんな風に、いつしか僕の記憶からも消え去ってしまうのかもしれないと、他人事のように思った。
 月の綺麗な夜だった。
 

19:50
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2015年03月28日(土)
【吐くんだトニー】(63)
 スパイとして捕らえられ、拷問が始まってからどのくらい経つだろう。
 俺達二人、もうずいぶんと長い間ここにいるような気がする。
 手足の自由を奪われた状態で、大きなガラスの水槽に閉じ込められ、上からは絶え間無く水が注ぎ込まれている。
 初めは余裕な顔をしていたトニーだが、いよいよ首だけを残してすべてが水に浸かってしまうとなると、目に見えて焦り始めた。
「畜生!」トニーが、悔しげにドンッと水槽に頭を打ち付けた。水しぶきが、派手に舞い上がる。「畜生! 畜生!」
「見苦しいぜ、相棒」俺が言うと、トニーは鋭く睨み付けてきたが、俺は構わずに続ける。「冷たいじゃねえか。それに、これはお気に入りのスーツなんだ。これ以上汚さないでくれよ」
「何をふざけたことを……!俺達はなにもやってないし、なにも知らないんだぞ!」
 水が口に入りそうだ。あまり時間がない。
 怒りで沸騰しそうなトニーを宥め、俺は出来るだけ手短に話した。
「仲間が複数いるのはとっく割れてるんだ。お前が喋らないのなら、他のだれかに吐かせるだろうよ」
 トニーの顔が青ざめていた。
 口を通りすぎ、僅かに鼻の穴が水面に出ているような状態で、トニーはなんとか呼吸をしようとするが、うまくいかないようだった。
「泳ぎは得意か? 相棒?」
 トニーはなにも答えない。
 ただただ苦しそうに水を飲んでは咳き込んでいる。
「まあ、縛られてたら、関係ないだろうけどな」

 俺はポケットから携帯電話を取りだし、仲間に連絡をした。
「水を止めろ。……ああ、ダメだ。トニーの野郎、全然吐かねぇ」

19:32
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2015年03月12日(木)
【おむすび】(55)


 ネコと仲良くするネズミみたいに、貴方とおむすびは仲良くできるだろうか。


 朝起きて、貴方が仕事に行くときに、おむすびは名残惜しくも見送ってくれるだろう。
 帰ってきたら、お風呂を沸かして待っていてくれる。ぽちゃんとお風呂に落ちて、お茶漬けになったら大変だ。パリパリの海苔が湿気ってしまうかも。
 夜はなかよく布団で眠るのだ。貴方は気持ちよく眠りにつくだろう。おむすびを食べる夢を見て、目が覚めて、寝ぼけた貴方にかじられたおむすびが、そこにあることに気がつくだろう。
 貴方は泣きながらおむすびを食べるのだ。ごめんなさいと謝り、泣きじゃくって、おいしいおいしいとおむすびを食べるのだ。
 おむすびにも、食べさせてあげたかったな……なんて馬鹿なことを考えながら、いつのまにかまた貴方は眠りにつくのだ。
 腹を満たされ、至福の時 。じつに質の良い眠りにつくことだろう。


「なあに、貴方。そんなにじいっと見つめて」
 家内が恥ずかしそうに笑うので、僕は慌てて妻に背を向けて目を閉じる。
 起きている間はいい。しかし、一度眠りについてしまったなら、僕は彼女に何をしてしまうか分からない。
 家内も家内だ。食べたくならないように、ガリガリの女性を選んだというのに。
 結婚した当初はあんなにスリムだったのに、最近は少し太ってきた。あんなに美味しそうなのに、僕は眺めていることしかできない。
 他の食べ物では、絶対に満たされないから、尚更辛い。
 そんな僕の後ろ暗い気持ちなんか知らずに、家内がおやすみをいう。

 僕は一体 いつまでおむすびとなかよくしていられるんだろう。
 



19:41
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2015年03月01日(日)
【ファンファーレを鳴らす人々】(73)

 私の母がファンファーレ屋さんをやっていたのは、もう随分と昔のことだ。「ファンファーレ 一回 百円」という札を置き、今でいうストリートミュージシャンみたいに駅前で即興のファンファーレを鳴らす仕事をしていたそうだ。
 値段が値段だから、仕事というほど稼げたわけではないようだけれど、なかなか人気があったようで、今日はセレモニーホールいっぱいの人が母へ挨拶をしに駆けつけた。
 息子が良い点をとったという親子や、もうすぐ子供が産まれるという夫婦、中には適当な理由をつけて自分自身に……なんて人もいた。いずれも随分と昔、母の鳴らすファンファーレを聞いたことがある人だった。熱心なファンもいたようだし、実際母の鳴らすファンファーレ・トランペットには不思議な魅力があったようだ。
 そんな母が、惜しまれながらファンファーレ屋さんを辞めたのには、理由がある。機械化だ。ファンファーレすらも指先一つボタン一つで済むようになったのだ。
 「いいことがあった日に、ポチッ! これからいいことがあるように、ポチッ!」脳みそが全部おっぱいに詰まってしまったみたいな水着姿の女の人の、不愉快なCMを覚えている。それを見た、母の悲しそうな顔も。

 それ以来、母が鳴らすことのなかったファンファーレ・トランペットを、今 娘の私が吹いている。私だけではなく、セレモニーホールに集まった人々が、それぞれの楽器で母へのファンファーレを高らかに響かせている。
 永久の眠りについた母の門出を祝うファンファーレを鳴らす人々に、ボタン式ファンファーレを鳴らそうとしていた火葬場の人は、なにもできずに固まっている。
 おめでとう。ありがとう、お母さん。
 貴方の素晴らしい人生と、その終わりに、心からのファンファーレを。

19:30
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2015年02月16日(月)
【糸電話】(71)
 僕にはこれといった取り柄もないけれど、誰かに糸電話を渡されたときに迷わずそれを耳に当てられる人間でありたいと思う。
 他人に胸のうちを明かすのが嫌だというわけではない。必要とあらば永遠に話してあげたいくらいだけど、よく考えて見てほしい。あなたが誰かに電話を掛けるのは、いったいどんな時なのか。誰かに話を聞いてもらいたい時ではないだろうか?
 例えば、今あなたは一刻を争う緊急事態。頼みの綱に電話をかける。するとどうだろう。相手は下らない話を永遠と話していて、あなたに口を挟む隙を与えないときた。腹が立つだろう。人の話を聞きたくて電話をする人はまずいないはずだ。
 だから僕は今、こうして糸電話を耳に当てている。

 数日前のある夜、眠る前に歯を磨いていたらとても乾いた音がした。僕は、聞いたことがある音だなと口をすすぎながら思っていた。まるで、紙コップが落ちた音みたいだと。そして、ある意味でそれは正解だった。
 拾い上げた紙コップの底から糸が伸びていて、窓の外へと続いていた。一体どこまで続いているのか、何の目的があるのか。全く理解できなかったけれど、僕は迷わずそれを耳に当ててみた。
 何も聞こえなかった。
 その後、僕は睡魔に負けて眠りに着いたのだけれど、翌朝目が覚めたときにも、糸電話は変わらずそこにあった。次の日も、そのまた次の日も。

 というわけで、僕は気が向いたときに糸電話を耳に当てる生活を続けている。
 このままずっと何も聞こえないままかもしれないし、気まぐれで何か聞こえてくるかもしれない。そもそも、糸電話自体が消え去ってしまうかもしれない。
 でも、僕は思うのだ。この糸電話の向こうの誰かが、僕と同じように毎日毎日律儀に糸電話を耳に当ててくれているのではないかと。自分の胸のうちを明かすのが嫌だというわけではなく、ただ黙って僕の話を聞いてくれようとしているのではないかと。
 だから毎日、この世のどんな素晴らしい言葉よりも意味のある、素晴らしい沈黙が、糸の向こうから僕のもとへ届けられているのではないだろうか。
 僕はにんまりした。もしもそうだとしたら、こんなに嬉しいことはない。
 きっと、明日もその次の日も、糸電話はここにあるのだろう。そして、ずっと沈黙し続けているのだろう。
 それでいい。それがいい。
 消え去ってしまってもいい、だからせめて、いつまでも沈黙であれと僕は願う。

21:45
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2015年01月04日(日)
【春を待つ】(93)
 初雪だ。朝ごはんもそこそこに、僕は外へと飛び出した。吐く息が白い、よく晴れた冬の朝のことだった。
 お家の屋根も、すっかり葉の落ちた木々も真っ白で、こういうのを雪化粧って言うんだろうなと思った。雪の粒に太陽の光が反射すると、宝石みたいにキラキラと光っていた。
 僕はというと、氷の張った水溜まりを割る為に、夢中で走っていた。
 早くしないと、他の誰かに割られてしまうかも知れない。天気が良いから、溶けてしまうかも知れない。それは避けたかった。

 すると僕は、いつのまにか青い空を仰いで居たことに気がついた。どうやら、仰向けに倒れているみたいで、立ち上がろうと踏ん張ると足元がやけにツルツルするのだ。
 ははあ、氷で滑って転けたんだな。それすら楽しくて、僕は一人でクスクス笑ってしまう。
 目の前に広がる青い空があんまり綺麗なので、僕はしばらくこうしていようと思った。深呼吸すると、鼻が冷たくなった。
 そろそろいいやと、体についた雪を払いながらゆっくりと立ち上がる。立ち上がりながら、僕はハッとした。もしかしたら、今の衝撃で氷が割れてしまったかも知れない。僕は恐る恐るお目当ての氷に近づいて、よく凍ってる水溜まりを覗きこんだ。ヒビひとつないキラキラと鏡みたいに綺麗な氷が、心配そうな僕の顔をうつしていた。
 よかった、割れてなかった。僕はホッと胸を撫で下ろした。それになかなか大きい氷で、割りがいがありそう。
 僕は辺りをキョロキョロと見回した。途中から誰かに横取りされたら、せっかくの氷割りも台無しだからだ。
 辺りには、誰もいなかった。楽しみを邪魔される心配はなさそうだった。
 それじゃあと、僕はいよいよ右足を上げて、力強く氷を踏みつける。
 ぱりんと氷が弾けたその時だった。

「うわーっ」男の子の声がした。
 僕はびっくりして、もう一度辺りをキョロキョロ見た。
 けれど、やっぱりまわりには誰もいない。
 気のせいかな。なんだろう。僕はもう一度氷を踏みつけてみる。
 ぱりん、「うわーっ」
 小気味いい音の余韻に浸る間もなく、やはり悲鳴のような声が上がった。僕は怖くなった。
「待って、行かないで」信じられないけれど、その声は水溜まりの中から発せられているようだった。「お願いだから、ここから出して」
 僕の心臓が、ばくばくと大きな音を立てていた。まるでマラソンでゴールした後みたいに、はあはあと息が苦しい。
 誰かが助けを求めているようなので、今すぐ逃げ出したいのを堪えて、僕は恐る恐る水溜まりを覗きこんだ。

 水溜まりの中には、深い闇が広がっていた。
 僕が壊した氷が天窓の歪なガラスみたいに鈍く光っているだけで、後はその下にずうっと深くまで真っ暗なのだ。そしてその真っ暗の中に、僕と同じくらいの年の男の子が一人でポツンとしゃがみこんでいた。
「ここから出してよ」と、男の子が言った。
 僕はドキドキしだけど、思いきって「どうやってそこに入ったの?」と尋ねてみた。
 男の子は、寂しげに首を横に振っただけだった。
「正直言って、凄く難しいよ」僕は男の子に言った。何故って、僕が精一杯に腕を伸ばしても、到底届きそうには無いからだ。
 男の子は、納得したように頷いていた。「それじゃあ、僕が自分でやるよ」

 どうやってと聞く前に、ぐるんと目眩がした。 
 僕はいつのまにか闇を仰いでいて、歪なガラスみたいな天窓があった。その向こうから、男の子が僕を見下ろしていて、僕はまさかと思った。
 どういうわけか、世界が反転してしまったらしい。誰かが砂時計をひっくり返すみたいに、意図も容易く、滑らかにぐるんと。
 僕の足元には吸い込まれそうな青い空。例えじゃなくて、本当に吸い込まれてしまいそうなのだ。
「助けて!」僕は必死に天窓にしがみつく。溶けた氷のせいなのか、汗のせいなのか。ツルツルと滑って、とても長くは掴まっていられそうにない。
 男の子がそれはそれは嬉しそうに、氷を踏みつけている。
 ぱりん。ぱりん、ぱりん。いつもなら心地いい音が、今は恐怖にしか感じられなかった。
 青い空に落ちないように、僕は闇へと手を伸ばす。何も掴めないし、まるで手応えはないのだけれど、何もしないよりはマシな気がした。
 けれど、いよいよ僕の体重に耐えかねた天窓が、パキッと氷の欠片となって砕けてしまう。

「うわーっ」僕は叫び声を上げながら、青い空へと落ちていった。
 天窓が遠ざかる。コンクリートの地面が、木が、屋根が、電柱が、ぐんぐんぐんぐん遠ざかっていく。
 そのうち、町全体を見渡せるようになって、僕は愕然とした。しがみつけるものが、何もないのだ。
 目の隅に、白い雲が見えた。よかった。僕は少し微笑んだ。いつか漫画で見たように、雲がクッションみたいに体を受け止めてくれるかもしれない。
 けれど、そんな期待もすぐに打ち砕かれることになった。ふわふわの白い雲も僕を受け止めてはくれず、ただ無力な僕の体がズボッと風穴をあけただけだったのだ。雲すら僕から遠ざかっていく。
 一体、僕はどこへ行くんだろう。もしかしたら、このまま宇宙まで落ちていくのかもしれない。宇宙の先はどこだろう。
 僕はまだまだ落ちていく。ただ深い青に吸い込まれている。まわりがどこまでも続く青なので、もはや落ちているのか、止まっているのか、よくわからなくなってきた。起きているのか、眠っているのか、どちらが上なのか、下なのか。
 僕は、なんとなく足に力を入れて踏ん張ってみた。すると、微かに感覚がある。
 踵の辺りでとんとんと叩いてみると、懐かしい感じがした。

 氷だ。
 僕はハッとした。背中にも何か感覚があった。確かめるように手で探ってみる。
「地面だ」僕は呟いた。目の前には、やっぱりどこまでも続く青い空だけど、僕は今、地面に寝転がっていた。
 何があったのか、よくわからないけれど、立ち上がろうとすると頭が痛かった。
 足元がツルツルする。きっと、氷で滑って転けたんだ。そうして、勢いよく頭をぶつけてしまって、気を失っていたようだった。僕は一人でクスクス笑った。
 体の雪を払いながら起き上がって、僕は氷の張った水溜まりを覗きこんだ。転んだ衝撃で、ひどく割れてしまっていたけれど、僕の顔を歪にうつしていた。
 すっかり体が冷えてしまったので、そろそろ家に帰ろうと僕は水溜まりを踏み越えた。
 家に帰って、お風呂に入って、暖かいココアを飲もう。

「出して、ここから出して」
 背筋が凍る思いだった。水溜まりの向こうから、男の子が恨めしそうに僕を呼んでいる。
 悲鳴をあげそうなのを堪えて、僕は一目散に家へと急いだ。

「分かったよ、いいよ、自分でやるから」
 嫌な予感がした。僕は振り返らずに走り出した。
 逃げなくちゃ、大変なことになるのはよくわかっていたから。
 すると、どういうわけか走り出した僕の右足が、地面を踏み抜いてしまった。まるで氷みたいだ。
 右足を抜くと、ぽっかりと穴が空いていて、その先に深い深い闇が広がっていた。
 その下で、男の子が嬉しそうに笑っている。なんだか、蛙みたいだなと僕は思った。
「冬はまだ長いよ」蛙みたいなぬるぬるした肌を光らせて、男の子が笑った。「退屈なんだよ、僕らは」
 男の子の後ろから、本来ならば冬眠中であろう動物たちが、争うように僕の方を覗きこんでいた。
 多分、冬眠中の唯一の娯楽なんだろうなと僕は思った。
「早く、春が来るといいな」蛙みたいな男の子がケロケロと笑った。

 それを合図に、また世界がぐるんと回って、動物たちから歓声が上がる。
 遠ざかっていく地面を見ながら、ああ、僕は春がくるのをこんなに待ち遠しく思ったことはない。




 


10:09
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